1.スクエアダンス初めて物語日本編

 1945年(太平洋戦争敗戦の年)12月のある日、長崎大学の理科系の教授連中の忘年会に招待された米軍の軍属(将校待遇の文民で占領軍の幹部)ウィンフィールド ニブロー氏が、余興の「オモテヤン」に喜んで「俺の国のダンスも踊って見るかね・・・!」と即興芸風に始めたのが日本におけるレクリェーションダンスの始まりである。

 

 ・・・bear foot on straw mat・・・とあって畳の上で裸足だったらしい、

・・・without music but my humming・・・だから彼の鼻歌につれて「ラララ ラララ Everybody go forward and back ~ルルル ルルル Right hand turn your girl」と進めて行ったのがコントラ ダンスのヴァージニャ リール=Virginia Reelだった。

 

 幸運だった事に、この程度のアメリカ弁に対して何とか対応できるレベルの英語力を備えた連中が相手だったから「先生 面白いね!今度もう一度レッスンしてくれる・・・!」となって、まず九州一体にコントラ ダンス・サークル ミクサーを伴ったスクェア ダンスが次第に上流階級の知的な社交パーティーのイベントとして普及していったものである。

 

 この時のニブローの所属はC.I.A=(Central Intelligence Agency)のCounter Information and Educational Depertment    (民間情報教育局)に移籍した事から本格的に普及への道が拓けてゆく。

 1946年には三笠宮殿下も北海道で指導を受けている。

 

 このセキュションから再建日本の文部省に助言という名の指示をして6~6~3制度の実施や、軍隊的な体育行事(騎馬戦・棒倒しなど)の廃止を進めて行った。

 

 体育祭などの行事に困ったお役人がC.I.Eにお伺いを立てたところでニブロー氏がオリジナルを提供し、日本体育大学の栗本義彦学長が翻訳~監修した解説書付きのレコードが日本コロムビァから発行されるはこびとなった。

 

 つくば大学の前身は東京教育大で更に前進が東京高等師範学校だったが、この東京高師時代の教え子を中心に文部省の肝煎りで ”新カリキュラムの中央講習”と銘打った集中講義と実技指導をして、次の段階には各都道府県でその受講生による伝達講習を行ったからこうした学校教材ダンスとして一気に全日本レベルの普及となった。

 

 このために、SDのコールが『号令のようなもの』として体育系の教師たちに理解されたから、初期のSDコールは甚だ芸術性に欠ける・・・プロムプト コマンド=Prompt Commanding・・・第一主義が主流になってしまった。

 

 前述のニブロー氏とは4年前にデンバーで逢ったがお元気だったし、今回も日本SD協会の問い合わせに便りを寄せて懐かしかったと聞いている。

2.8人制ダンスの誕生はフランスで

1600~1700年代の話しだが、イギリスでは地方で流行したダンスがロンドンの宮廷のダンスホールに進出し大流行してしまった。

 当時のヨーロッパンの宮廷ではダンスの教師はフランス人の独占世襲制だったが、里帰りしたフランス人のダンスの教師によってこの『田舎風のダンス』がフランスにも伝えられてゆく。

 

 しかい、フランス王は英国風を嫌って宮廷内でのパーティーを許可しなかったから、それは金持ちの個人の自宅のサロンで踊られる羽目になったが、長い列では面白いコントラ ダンスだが狭い部屋では使えてしまうからとの改良が行われて、8人(4組)で踊る新タイプが発明された。

 

 旧式のコントラ=Contre Dance or Longways新たに考案された8人制=Cotilon(コチロンは仏語でペチコートの意)、更にフランスに渡来したての呼び名はコントラ ダンセ アングレーズ=Contra Danse Analaise(対列で踊るイギリス式ダンス)だった。

 音楽の方は1600年代はハンド ベル=Hand Bellsにハープ=Harpcicordが主力で、ヴィオル=Viol(チェロのように床に立てて弾く)が加わる程度に合唱隊という編成だから、自然にダンスも現在のほぼ4分の1程度の大変スローなものであった。

 

 1600年代の後半にヨーロッパで発明されたのが・・・ヴィオルの小型・・・で顎でおさえて弾くヴァイオリン=Violinの登場から次第に軽快な速い演奏が可能になり、やがてハープを倒して箱に入れた反響板付きの楽器ピァノフォルテ=Pianoforteが登場してダンスの伴奏音楽の主役をしめてゆく。

 

 こんな時代にアメリカの開拓がはじまったから、アメリカには楽器の革命とコントラ ダンス・コチロン・ワルツなどが一緒に渡って行き、ボストンなどの社交界をその流行に巻き込んでしまう。

 

 一方ではフランスからイギリスに逆輸入された8人制ダンスはスコットランドにも伝えられて、スコテイッシュ カドリール=Scottishu Quadrilleとなって今日のそのオールド スタィルを見せている。

 

 このカドリールの語源はスクォド=Squadにあり、ローマ帝国時代からのイタリーの羽飾りを着けた騎兵のパレードのマーチングの最小単位・・・つまり2騎行進・・・を指す。

 

 カップル単位でPass-thru、Wheel turn、Sepalate round、single fileなどとリーダーの合図につれて変化する騎兵のパレードをイメージに置いて読むと、カドリールが『4組のスクォドの変幻自在の動きのあるダンス』の底意を秘めている事に気が付く。

 

 類語では軍隊用語で、陸軍ではバタリォン=Battalionと呼ぶ・・・中隊を二つ集めた実践編成団・・・を、空軍ではスクォド=Squadronと制式名として今でも使っている。

3.リンカーンが躍ったSDとは?

 1861年~65年の間アメリカの大地は南北戦争の動乱でゴッタ返しになったが、実は1780年頃の独立戦争に際してもダンスの普及~発展にとって見逃す事を許されぬ裏面史が展開されている。

 

 実は最後の勝敗を制した英国軍と独立アメリカ軍の”ヨークタゥンの戦い”では守る側のイギリス軍を、アメリカ軍とフランス軍が一緒に攻撃して降伏に追い込んでいる。戦死者の数はフランス軍10に対してアメリカ軍5の割合だから、正面攻撃の主力がフランスからはるばるやって来た応援派遣軍だったことがわかる。

 

 このレバノン軍団がロード アィランドのニューポートに滞在中に(約1年間)毎月のようにダンス パーティを開いた事から、コントラ ダンス・カドリール・コチロンが一気に東海岸に定着していったし、アメリカ軍のリーダーのワシントン将軍も表敬訪問をしてダンスパーティに参加した記録も伝えられている。

 

 南北戦争でもリンカーンと次の次の大統領になった(リンカーンの暗殺で次の大統領は副大統領のジョンソンが昇格して残りの任期を勤めた)グラント司令官がワィフを同伴してリヴァーボートを借り上げた臨時作戦指令部に席を設け、陸軍のバンドを呼んでSDパーティを開いた史実がある。

 

 もっとも、この時も二人は今後の作戦などの話しに夢中になっていたからダンスのお相手は若手の士官達がつとめたそうで、二人が揃っての参加したのはヴァージリールだったとあって、第2回で述べた独立戦争のアメリカ時代にワシントン将軍が躍ったから・・・ヴァージニァの大将が大好きなダンスの意でVerginian General's Reel ~Virginia Reelなのだとの伝説のあるこの曲が再度歴史の舞台に躍り出て来る。

 

 A)独立戦争のワシントン将軍のダンス

 B)南北戦争のリンカーンとグラントのダンス

 C)長崎のニブローの裸足のダンス

となって遥か昔から戦争騒ぎの中を三題話しのようにヴァージリールという史上最強のダンスが貫いている不思議に胸を打たれる。

 ちなみにスクェアダンスの語を出版物の中で用いはじめたのは、前述の南北戦争にグラント将軍の副官として参加し、ジュリャ夫人の専属パートナーをつとめたポーターで、回想録の文中だったとある。

 

 それまではイギリス風のカドリール、フランス風のコチロンなどが用いられていたから、文学的・歴史的な言葉のSD誕生は1870年のことでウェブスター辞典に初出している。

上記の文章は2000年7月14日にDaddy西澤氏が作成し許可を頂いた文章を記載しています。